九州の皆さまへ・・・私の「新店舗」への想いです 後編

(今回は文章のみのブログとなり、かつ、長文となります)

~続きです~  さて、やって来た黒船とは・・・それはいつものように朝刊を読んでいて見つけた小さな記事なのですが・・・。

「JR九州は、2011年開業を目指す新博多駅ビルの核テナントとして高島屋百貨店と交渉を開始した」

という一文でした。

これはとてつもないことで、高島屋というと「ドイツ系の工房を持った靴店」をテナントとしてこれまでの店舗で展開しており、かつ、これにあの強力な外商部隊が福岡で動き始めれば、地方都市の一角で同業を行っている当店にも影響が出るでしょうし、特にその時期の博多は商業について一人勝ち状態で、本件はさらにそれに拍車がかかるであろう事の暗示していました。

また、これで人生の分岐点・・・この時点で私はあと25年以上は働く必要があり、それを考えた時にどの様な決断をすべきか?

当時の当店は直方市で運営していたにもかかわらず、福岡市内のお客様が多く、かつ、両親もまだ働き続ける気力もあり、今までの地元のお客様にもご迷惑をかけない・・・「新駅ビルができる前に同じ土俵の福岡市に出店し、事前に地盤を築いてそれにそなえるべき!」と発想し、その準備を始めました。

しかし、直方の商店が天下の博多に出で行く行為は敷居が高く、かつ、家族内でも反対があったのは事実です。

私はその間も休みのは日は、福岡市内の商業地を歩き、不動産屋を尋ね情報収集に努めました・・・その中で家族とも話し合いを行い、なんと構想半年後(!)の2009年9月に現在の「福岡大濠公園店」をオープンさせることができました。

まぁ、簡単に「オープン」と書きましたが、たくさんの皆さまのご助力の上で成り立った事で、イメージとしてはロケットが重力に逆らいながら、いろいろなものを力でねじ伏せ推進していくぐらいの努力が必要でした。

さて、店長である妻と二人でオープンした大濠公園店ですが、最初から情報番組の取材なども頂き、思いのほかに順調な船出となりました。

その頃に新博多駅ビルの核テナントが高島屋から「阪急百貨店」に変更となったのですが、阪急といえば他の百貨店が壊滅しても残るであろうと言われる地力を持った企業で、ますますの危機感をもちながらの大濠公園店の運営を取り組んでおりました。

その頃に私の境遇に少しずつ変化が始まりました・・・直方にいた頃は「足と靴と健康」とか「体を守るための靴」とかを提唱しても、なんのリアクションもなく空しいものでしたが、福岡市で開店する直前ぐらいに「足フェチ(仮称)」を主催する「福岡大学医学部・竹内一馬先生」に声をかけていただき、2010年の2月「第8回フットケア学会・市民公開講座」に参加させていただく幸運がございました。

この時思ったことは、「真面目に靴屋たり得ることで、世の中の役に立つことができるのだな~」という事です。

例えば、「ちゃんとした靴をお勧めすることで寝たきりになる人が減ったり」・「合わない靴によって発生するお悩みに対して、正しい知識を啓蒙する事でそれを防げれば、予防的な医療にも貢献できる」と、これまでは個人としていかに生き残るかをテーマとしてきた中で、社会という「公(おおやけ)」のなかでの当店の役割をおぼろげながら意識し始めた頃でした。

そして、この時期に最後の黒船が私のもとにやってきます。

フットケア学会と同月に行われた東京での靴の学会でこんな噂を聞きました・・・博多新駅ビル内の阪急百貨店に「楽歩堂」ができるらしい!

これは核弾頭ぐらいのインパクトがあり、なぜかというと当時の楽歩堂靴店と言えば地元群馬から、埼玉を経て東京まで南下しつつ5店舗ぐらいを展開中のドイツ系の靴店でも図抜けた勢いがあり、みな社員は若く元気で、かつ、社長はトライアスロンまでやってしまうと言う「超イケイケの武闘派集団」です。

しかし、南下するにもいきなり福岡に来るのかな?と疑問に思った私は業界の大先輩で面識のあった(過去にドイツでお寿司を奢ってもらった事もありました)澁谷社長に学会の会場で伺ってみました。

その際のお答えとして、「一度、福岡におじゃさせて下さい」との事で時期を改めて当店を訪問され、言われた一言は「一緒にやりませんか」というご提案でした。

私がこの時に断れば、今回の新店舗「博多阪急 楽歩堂」は存在しなかったと思います。

私は商店街の子供で小さな時からよく見た光景ですが、大きな商業施設ができそうになると「みんなで反対!」をいたします。

結果、現状は維持されますが、維持の進化形は衰退でしかなく、お客様の選択肢を無視する行為がどの様な結果を招くかは、多くのシャッター通りがそれを現していると思います。

私が「足もとより健康に」を提唱する立場のものであれば、お客様に素晴らしいドイツ靴の文化を知っていただく為にも、より多くの選択肢として先駆者である楽歩堂靴店がこの九州に必要であると判断し、そしてこの両者が切磋琢磨する事で、さらに高いレベルの顧客満足を実現すべく、その決断を致しました。

さて、これが去年の春のこと・・・前回の大濠公園店の開店がロケットの離陸としたら、今回は月まで行くようなミッションです。

店長と同期でバチェラーシューフィッターの勉強をしていた前田君をくどき、神戸医療福祉三田校の在校生だった杉村君を「よく当社を訪ねてくれましたね!内定!」と巻き込み、直前ですが、久保田さんと須﨑君という力強いスタッフがその輪に加わってくれました。

特に前田君には、楽歩堂の味を知ってもらう為にも何度も東京・群馬と研修にも行ってもらい、開店の準備に備えたものです・・・しかし、自らのノウハウを公開し、それを伝授いただいた澁谷様には本当に頭が下がります・・・感謝致します。

「シューズクラトミ大濠公園店」は、足と靴にお悩みのある皆さまの対してのよりどころでありたく、今後も「足もとより健康に」を提唱する、古よりあるハードな健康靴路線を突き詰めたく思います。

「楽歩堂 博多阪急店」については、「より健康に・より快適に・より美しく」のお手伝いとしての例えば、昨今のランニングブームのなか、なかなか定着しない正しいシューズ選びのご提案と機械による評価・オーダーインソール作成などチューニング、また、その方がプライベートのビジネスシーンでパフォーマンスを維持するためのビジネスシューズ・パンプスの選定、合間のエクササイズシューズのお見立てなど「より元気になる為の靴のご提案」を行っていきたく思います。

最後に「たかが靴、されど靴」・・・私の夢は私の生きる道を照らしてくれた「ヨーロッパの優れた靴文化」をより多くの方にご紹介することであり、会社として「公器」であることを意識して、ここ九州より「足もとより健康に」を発信していこうと思っております。

そのひとつとして、素晴らしい靴店がオープンいたしました。

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福岡市博多区博多駅中央街1番1号 電話(092)461-1381
博多阪急8階 阪急イングス内 「楽歩堂 博多阪急店」

http://www.hankyu-dept.co.jp/hakata/ings/

以上を持って、私の九州の皆さまへの「新店舗」の想いとさせて頂きます。
長文にて失礼を致しました。

☆こちらもどうぞ!・・・ http://rakushacho.exblog.jp/12211191/

☆3月の定休日・・・16日(水)
☆4月の定休日・・・お休みはありません

九州の皆さまへ・・・私の「新店舗」への想いです 前編

(今回は文章のみのブログとなり、かつ、長文となります)

ブログの更新をしばらくお休みし失礼をいたしました・・・今年の2月より3月にかけては私の人生の中でも過去ないぐらいの多忙な時期でした。

なぜなら、新店舗の立ち上げに忙殺されていたからなのですが・・・この出店には、本当にいろいろな背景があり、今回はその「想い」を文章にして皆さまにお伝えしたく思います。

当店の半生記の様になりますが、私の祖父が福岡県の直方市で靴工房を開いたのが1938年・・・当時の筑豊は隆盛を極めた石炭産業の中核をなす都市であり本当に景気がよく、国鉄などに出入りしていた祖父の工房にもたくさんの靴の発注が入り、かつ、多くの職人さんとその仕事をこなしていたようです。

そして、代替わりして私の父が社長となった時代は、韓国などより既製品の革靴が多く輸入され、「つくる」事より「販売する」事がメインの靴店に変化していきました。

そんななか、もう20年も前になりますが大学を出た私は京都の会社に就職をしました・・・当時の就活も簡単で電話をしたら「よく電話をくれたね!内定!」みたいなバブルの残るご時世でした。

京都の本社より、早くも10ヶ月で東京に転勤になり、営業職としてテリトリーの関東を駆け回り、また2年したら技術系の本部に配属となり、こちらでは全国を駆け回りというサイクルを2回ほど繰り返したときに、あっという間に私は30才となってしまいました。

今の自分の行動基準はこの時に作られたもので、個人商店に顔出しに行った帰りに大企業にプレゼンに行ったりの対応する業種の行動半径の広さや、「売り上げ」という基準の中でいかに組織の一員たりえるかなど、この会社には本当に多くのことを学ばせていただきました。

また、仕事が終わり会社のある新宿から歌舞伎町や地下街をぬけて通勤する日々も本当に楽しく、かつ稼いだお金はこの地域には全て貢いだ気がします。

この8年が本当に早かったのにビックリしたのと通勤の埼京線(当時日本一混むと言われた路線でカバンのなかのプラスチックが割れるぐらいの凄さ)に乗るのが嫌になった私は、家業を継ぐべく退職をいたしました。

さて、父が社長の時代に家業の靴店に入った私の感想は「正直・・・あまり面白くない」というものでした。

なぜかというと、当時は1980円のケミカルシューズや9800円ぐらいのファッションやビジネスシューズが商材の中心で、お客様との会話も価格が「高い」とか「安い」程度で、かつ、当時もよくお店は繁盛しており「なんかやることがないな~」と言うのが素直な感想でした。

・・・だったらと、多少、指先の器用さに自信があった私は、靴店内でできる事という事業で「靴修理」を思いつき、いろいろ調べて「根本製作所」というメーカーより、小型の靴修理のマシンを購入し、店の一角を区切り「靴修理・合鍵・傘やカバンの修理」というリペアの仕事を始めました。

これは本当に面白く、持ちこまれた靴をどの様に修理するか想定し、材料を加工し仕上げていくという課程は楽しく、かつ、やればやるほど深みがあり熱中をしたものです。

しかし、その時に私の人生で第一の黒船がやってきます・・・・それは私の住んでいた直方市にイオンモールの出店が決まったことでした。

計画のモールは規格外の大きさで、こんなものが郊外にできたら私のいる商店街が影響を受けないわけがありません。

当時、結婚も決まっていた私は、今の環境を使って「何かほかのことができないか」と、ネット検索していて見つけたのが「FSI」という足と靴の学校で、ここではドイツ式の靴やインソールの加工や調整を教えてくれるそうで、かつ、これだとマシンも転用して使えそうでした。

そして、そのFSIの資料を取り寄せてビックリしたのですが・・・高い! 2週間ワンセットの講座を2回受けることでセミナーは完結するのですが福岡から出張して、その金額をプラスすると安い車なら買えちゃう金額でした。

でも、ここが私の人生の基点でした・・・このセミナーに参加した私が一番嬉しかったことは、一緒に勉強する仲間ができたことです。

修理の時は横の繋がりなどなく、それでもできたのですが、オーソペティの奥行きの深さは無限大で共に進む仲間がいないと挫折するのが関の山でした。

また、当時のその様なセミナーも多く開催されており、当時の日報を見ても私は取り憑かれたように東京に月に3・4日は出張し、様々なオーソペティの講座やたくさんのドイツ系の靴店さんを尋ねて靴を買いそれを繰り返しました。

人生において、この時期を言葉にするなら「疾走感!」という一言に尽きます・・・たくさんの出会いがあり、見知らぬ土地や異国にも出かけその文化に触れ、本当に突っ走った30代でした。

まぁ、一番偉かったのは何も言わずにお金と時間をくれた両親で・・・本当に感謝しております。

さて、当店は「ドイツのオーソペティをベースとした工房を持つ靴店」となり、結果として、たくさんのお客様にもご支持を頂き、イオンモールの営業開始後も安定感を持った経営を続けることができおりました。

しかし、安定したと思ったこの時期に・・・またしても第2の黒船が私の人生に押し寄せ来ることを知りました・・・それは!  ~続きます~

☆3月の定休日・・・16日(水)
☆4月の定休日・・・お休みはありません